耳障りな言葉の氾濫に

 自分も、それらを嫌うからには重々留意していたい、とは思うものの、戦後の生まれだから、自分の気持ちを表す用語については、かなり混乱しているのだろう。新聞をよく読んだ世代、ラジオによって耳から覚えた世代、テレビが普及して目と耳で覚えた世代、そうして現代のネット社会、と考えてみると、用いる言葉の吟味は、次第に甘くなっている。IT社会となって、鴎外・逍遥と変換されてしまう表記を、まあ仕方ないじゃないか、と言っていたら、いつの間にやら、テレビでは「明るみになる」と言うようになってしまった。
 昨年から、とみに耳障りに感じるようになったのが、「ありえない」の語で、それまでは「いつか消える流行り言葉だろう」と見逃してやってきたが、地震津波原発事故に関して、それらへの対応の遅さや不適切さに苛立ちが大きなせいか、この語が評者の口から飛び出すと腹が立つようになった。多分、僕の語感はすでに現代では古いのだろう。
 先日は京都市内で大きな自動車事故、今日も亀岡市で悲惨な交通事故があった。テレビでは何度か「ありえない」と言っていたが、何が「ありえない」のだ? こんなことが何度も繰り返されるのは、こんな流行り言葉を使ってものごとを評し、その恬として恥じない心持ちに端を発しているのじゃないか?
上記のように立腹して書くのも、「先日お投げした原稿の件ですが」などとメールが届くのにも起因しているのだろう。最近の「業界」では、「依頼する」を「投げる」というらしい。「レイアウトは先割でデザイナーのほうに投げました」と実際に使っている。

画像は、先日「暮らしと健康の調査」アンケートに答えたら送ってくれた僕の食事バランスチェックに付属していた「食事バランスガイド」。「主食」の部分で、ごはん普通盛り1杯は「1.5つ」と数えるのだそうだ。東京大学一橋大学経済産業研究所の調査だ。栄養に関する知識を広めるために日本語を撲滅する気か? などと問い詰めたい気もする。
 以前から、そのうちなんでも1個2個と数えるようになるだろう、人も本も牛馬も魚も箪笥も、その方が楽なんだからなあ、などと嘆いていたのだが、「1.5つ」は予想できなかった。フレクシブルな語感を持った方々が、東大や一橋大にはいるものだなあ。
 花菱アチャコが大昔に、「もう無茶苦茶でござりまするがな」と言って大人気だったが、僕もそう言いたい心持ちだ。