フェイスブック(FaceBook)への招待

喪失感にかまけていると、他者との関係まで喪失することがあり、それがまた他者に新たな喪失感を生むという、意味の無い不具合の連鎖も生じる。考えるところもあり、招待に応じてみたら、プロフィールを書くのだそうだ。好きな本は?、とか、好きな音楽は?、とか訊ねられるのに答えて行く。記入したのが画像の本。

1970年1月20日刊/ヴェド・メータ著/河合秀和訳/みすず書房発行。Webで参考画像を探したら無かったので、自分のものを撮った。副題に「現代イギリスの哲学者と歴史家」とある。表紙の絵は「バートランド・ラッセルさまざま」とあるが、様々感があるようでもない。
この本を読んだのは高校附属の「図書館」(図書室ではないところに先人の教育熱の高さがあったのだそうだ)で、71年の初夏だった。読んでいると、同級生の女の子が来て、萌黄色の木漏れ日を浴びながら、図書館2Fのバルコニーで、人間の運命について、あるいは運命論の可否について、ひそひそと話した。ちっとも哲学的ではなく、青春期にありがちなこと、だった。この子は、秀才で派手系のたいへんな美人であった。もうちょっと違う話をすれば良かったのに、馬鹿じゃなかろか、と思うのは今だからで、今の歳でもたいがいの男女は馬鹿になる。
この本の本文扉には、画像のように記してある。

そこで、『ハエとハエとり壺』を読み終えると、「世界の名著」シリーズの棚から該当本を抜き出し、トラクテータスを読んだ。図も載っていたので、それまで写した。
別の同級生の女の子に本を読んだ話をすると、フッサールを読め、という。仕方がないので、厚いほうと薄いほうとに取り組んで、へとへとになったが、忘れてしまった。この子は先の女の子と市内の双璧をなす、たいへんな和風の美人で、秀才かつ意志堅固だった。つらつら思うに、妹の力と言おうか、精神年齢の男女差と言おうか、経験から深く頷くことが多い。
僕の持っている本は東京で買った古書だが、表3の対向ページに万年筆の青い文字で、15,March,1971、と書き込みがあるから、僕が田舎の図書館で読んでいた2か月前位に購入されたようだ。みすず書房が出した時には650円だったが、アマゾンでの古書価格をみたら、\10,000〜とあった。そんなはずも無いと思うが、少し高すぎる値付けじゃないだろうか?
だから、「好きな音楽は?」という質問には「僕の好きな先生」と答えた。秋岡先生の「タバコと絵の具の匂い」がとても懐かしく思い出されたからだ。この曲も高校時代から好きだったが、そんな先生が実際にいて、後年会えるとは夢にも思わず、ついウロウロと道草ばかり食っていた。
山村暮鳥の「手」という有名な詩に、「しつかりと にぎらせたのも さびしさである/それをまた ひらかせたのも さびしさである」という一節があり、FaceBookの招待に応じたのも、寂寥感と喪失感とを感じているのかもしれない人の波長に影響されたのかもしれない。